2010年12月10日11:31 AM

前回の投稿をきっかけに「自慢」についてちょっと考えてみました。
なぜ自慢話は記憶に残らない、さらに言えば、聞いていて気分が悪いのでしょうか?

我々の仕事で身近な「取材」を例に考えてみました。

そもそも取材というのは、会社や製品や人物など「ある何か」について報道機関が興味を持ち、その何かの内容や特長や実績や経緯などを説明する場ですよね。もしくは、説明をすることで報道機関に興味を持って貰う場でもあります。この取材の場で、どうせ説明するのであれば悪く思われるよりも、良く思われたいというのは当たり前。折角の売り込みの機会ですから。すると、どうしても自分の会社や製品の事は「良いように言う」となります。

しかし、この「良いように言う」という話しが、「熱意」に聞こえる人と「自慢」に聞こえる人がいます。

なぜでしょうか。

色々考えてみましたが、どうやらそこには「おかげ」という事の要因が大きいようです。

例えば、自分が今の立場(社長さんとか)になったのは、「自分のおかげ」として話しをする人と、「世の中のおかげ」として話しをする人の違い、ということです。確かに企業のトップになるためには、自身の様々な努力やその人に備わった能力、資質が大きく左右しているのは理解できます。しかし、協力してくれたスタッフや応援者、社会情勢や時流など、自分以外の多くの人や環境なんかも大きく関係していたはずなんです。

自分を取り巻く環境は、決して「自分のおかげ」ではなく「世の中の様々な協力のおかげ」があって成立している。そんな事は恐らく誰もが知っていることです。それが分かっていながら、ついつい「良いように言う」つもりが「自分のおかげ」と話しをしてしまう。そんな人の話しからは「世の中の様々な協力」を否定している、蔑ろにしているような感じを受けるんです。少なくとも私は。聞いていて湧き上がってくる感情は、「はいはい。じゃ、独りで勝手にやってれば」てなところです。

一般的に、広報を英語で言えば「Public Relations」です。平たく言えば、「世の中と良い関係を作る」ということもできますよね。報道機関は、企業とか人とか商品とかそういったものと「世の中」、この両者の正しい関係作りの一端を担っているのだと考えています。その報道機関に説明する「取材」の場で、「全ては自分のおかげ。世の中の協力なんて関係ないもんね?」って聞こえてしまうような「自慢」をしてしまう。「ある何か」と「世の中」の関係性を知りたいという報道機関と、全ては「自分のおかげ」とし「世の中の様々な協力」を否定してしまうような「自慢」する人。
そりゃ?、そもそもが相容れる訳ないですよね。

本来「自分のおかげ」なんて概念は日本語にはないですよね。「おかげ」はあくまで「他人=世の中」からです。でもね、増えているような気がするんです。「自分のおかげ」としてしまう人が・・・

これを書いていて、あらためて「おかげさま」という日本語の大切さを感じました。

 

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